小笠原レースの歴史

島を目指すレーサー達
日本外洋ヨットレース史における「小笠原レース」の立ち位置は?

■黎明期

戦後、日本に駐留していた英米人によってCCJ(クルージング・クラブ・オブ・ジャパン)が結成されたのが昭和23年(1948)のこと。
昭和25年(1950)には戦後初の外洋ヨットレースが開催されています。横浜→大島岡田港の片道コースで。当時の活動の中心は横浜だったもよう。

筆者が生まれるずっと前のお話なのですが、NORCの会報『Offshore』のアーカイブス(以下:アーカイブ)を手繰って日本外洋ヨットレース史を「小笠原レース」中心にまとめてみたいと思います。

昭和27年(1952)には連合軍による占領が終わり、昭和29年(1954)1月、CCJを改組し日本人主導のNORC(日本オーシャンレーシングクラブ)として再編成されます。

結成当時の登録艇数はわずか19艇ですが、ヨットレースがやりたくてしょうがない19艇なわけで。3月にはNORC主催の初レース「木更津レース」(横浜→木更津→横須賀)が開催されています。
東京湾を横断するレースなんて今では考えられませんが、当時の東京湾はそれほどのんびりしていたということでしょう。

昭和30年(1955)にはNORC小網代フリートが結成され、活動の中心は相模湾に移っていきます。以降、初島、神子元、大島、下田と、相模湾を舞台に続々とレースが開催されていきます。
さらに足を伸ばし、昭和35年(1960)からは「第1回鳥羽パールレース」も開催されます。

花の大島レース、男の神子元レース、そして夏の烏羽パールレースの3つのメインレースが軌道に乗って、日本の外洋レースは、地についたものになった。アーカイブ『NORCの航跡30年 1954-1984』「CCJ時代から今日までの足跡を辿る」(志賀仁郎) より

昭和39年(1964)、日本オーシャンレーシングクラブは社団法人 日本外洋帆走協会に改組。NORCという略称は残るも日本語名が変更になったということ。
この年、日本ヨット協会(JYA)も財団法人 日本ヨット協会として再設立され、第18回東京オリンピックも開催されています。

以降、平成11年(1999)に両者がJSAF(日本セーリング連盟)として統合されるまで、日本のヨット界は、ディンギーのJYAとクルーザーのNORC、2つの組織が牽引していくことになるのですが……。

昭和30年(1955)生まれの自分の記憶からすると、この頃(60年代)はなんだかもう日本中が沸き返るような熱気に包まれていたように思います。
堀江謙一氏の最初の太平洋横断航海が1962年。
アポロ計画が始まったのが1961年で。目新しいものが次から次へと少年の目の前に現れ。かと思えば、忍者ブームでもあったよなぁ。科学と忍術が共存していた時代。

改めて当時の町の情景を一言でいえば、サザエさんの世界ですね。女の子はみんなワカメちゃんみたいな格好をしていて、年配の女性はだいたい着物だった。フネさんとか、とらやのおばちゃんみたいに。

そんな時代の外洋ヨットレースとは、どんな世界だったのか。

■JOGの魅力

発足当初、NORCの登録艇はJOG(ジュニア・オフショア・グループ)と呼ばれる小型艇がメインでした。

JOGとは英国で1950年に始まったクラスで、水線長16ftから20ft──つまり全長20ft前後の小型艇ながら大型商船なみの高い堪航性をもち、風の力だけで遥か大海原を走り続けることができる。世の中みるみる便利になっていった高度成長期に逆行するような、今でいえばサステナブルな乗り物なわけで。

Offshore 1981-6
Offshore 1981-6

当時の記録を読み進めるに、どうもこのJOGというクラスの存在がNORC発足当初の外洋魂の源なのではないかなと思うのです。
海軍魂がまだ残っていた時代、ともいえ。

このJOG、本家英国では今でも健在です。
「JOG Yacht Racing」というタイトルのwebサイトがあります。規格はだいぶ変わって、現在はIRCのTCCが1.200以下……ってことは、日本で言えばミドルボートに相当する感じですか。K36-SAMURAIでもTCC:1.180ぐらいですから。
当時のJOGは、今でいうならミニ6.5みたいな魅力──優雅というより冒険心溢れるワイルドにして緻密な感じかと思われます。

■躍進期

昭和42年(1967)、「第1回八丈島レース」が開催されます。
このときは、鳥羽をスタートし八丈島を回って城ヶ島フィニッシュというゴールデンウイークのイベントで、参加5艇ながら「日本初の本格的な外洋レースである……」と、会報にはあります。

50年代から60年代中期までがJOGの時代なら、70年代に入ると艇の大型化はめざましく。
以降、八丈島レースは小網代スタート・フィニッシュとして毎年開催されており、5月に八丈、7月に鳥羽パール。で、昭和47年(1972)の沖縄返還と共に「第1回 沖縄-東京レース」も始まり。昭和49年(1974)からは「第1回三宅島レース」も。と、70年代は日本外洋ヨット界のカンブリア大爆発といえるかと。

「竜王」「サンバードⅢ」

たとえば昭和52年(1976)をみると、5月が「第3回沖縄東京レース」で15艇出場。7月の「第17回鳥羽パールレース」には104艇。9月には「第3回三宅島レース」で40艇が出場し。10月には「第9回八丈島レース」で8艇、同時に「第3回大島・初島レース」も開催されていてこちらには47艇と、外洋ヨットレースは大賑わい。

そしていよいよ昭和54年(1979)、「第1回 小笠原レース」が開催されるわけです。

■伝える。残す。

隔月刊だったNORCの会報も、昭和52年(1977)からは月刊に。名称も『NORCだより』から『Offshore』へ、回覧板から月刊誌に昇格という感じで内容も充実。「第1回小笠原レース」開催を告げる1979年5月号はまるまる小笠原レース特集……というか「小笠原レース」の広報パンフレットになってます。このレースの開催にかける主催者NORCの気合いの入れようが感じられます。

078_1stOgasawaraRace

この中で、小笠原レース実行委員長の石原慎太郎氏は、

早い話、あの俗悪極まりない、もう全く何の情緒もないハワイやグアムなどといった島へ出かけるより沖繩の八重山や宮古の島々を訪れた方が、はるかに豐かな自然と深い旅情にひたることが出来ます。
ですが、未だ数多い未発見の日本の内で、小笠原ほど人に知られず、知られぬ故にその鮮烈なほどの美しさに氾れているところはありません。日本の中で、というより世界の中で、といっても過言ではありません。

と、慎太郎節を炸裂。当時47才で、翌年からNORCの会長に就任されます。

5月1日、主催者の予想を超えた18艇もが小笠原父島二見港をスタート。
で、結果は次の『Offshore』1979年6月号に。

079_Offshore_050

これ読むと、なんだかもう島を挙げてのお祭りのようになっていたもよう。
小笠原自体が今よりずっと離島感にあふれていたようですね。

第2回小笠原レース」は昭和56年(1981)に開催。
こちらは『Offshore』1981年6月号にそれはもう詳しくレースレポートが掲載されておりまして。なんでしょうか、文字に残さずにはいられないたぎるような情熱に、こちらはもう脱帽するしかないのであります。
そして、書き留め残すことがいかに重要か、ということもキモに命じます。

昭和63年(1988)には、小笠原返還20周年記念キャンペーンの一環として、東京-小笠原レースも開催され東京港ヨットパレードも行われている
昭和63年(1988)には、小笠原返還20周年記念キャンペーンの一環として、東京-小笠原レースも開催され東京港ヨットパレードも行われている

こうして「沖縄-東京」と「小笠原」は隔年で開催され、ゴールデンウイークを賑わせる定番イベントとなっていくわけです。

■爛熟期

昭和60年(1985)春、アーカイブにある『NORCの航跡30年 1954-1984』が発行されますが、当時の石原慎太郎NORC会長は冒頭「NORC30周年に寄せて」の中で、

……新しい時代を示唆するいくつかの注目すべき動きもあります。しかし、反面、別の過渡現象として、国内における従来の伝統あるオーシャン・レースが衰退している……

とし、

外洋レースこそ、海を持つ国家民族の心意気の表示であるという自覚のもとに、みんなして力を出し合い、ヨット界における新しい繁栄を築きましょう。

と結んでいます。

〝国内における従来の伝統あるオーシャン・レースの衰退〞とは、なにを指すのか。

実際この後、平成2年(1990)の「第10回沖縄東京レース」、平成3年(1991)の「第7回小笠原レース」は参加艇が集まらず中止になっています。

しかし逆に、80年代の日本の外洋ヨットレース熱はすさまじいものがあって、レベルレースの発展型である「ジャパンカップ」はその前身となる「熱海チャンピオンシリーズ」が昭和58年(1983)から始まり。ハワイで隔年開催された「パンナム・クリッパーカップ」(のちの「ケンウッドカップ」)には、毎回日本から大挙して出場しています。ハワイまでヨットを持っていって、なんだかんだで3週間くらいはレース漬けの日々を送る大イベントに、です。

長距離レースというなら、昭和58年(1983)には「第1回グアムレース」(1330マイル)が開催され、それまでなかった年末年始のビッグイベントとして以降毎年開催されています。1週間以上走り続けるようなロングレースを、隔年ではなく毎年です。

昭和62年(1987)には「第1回メルボルン大阪ダブルハンドレース」が開催され、優勝した〈波切大王〉はスキッパーで当時NORCの副会長だった大儀見薫氏の迫力ある風貌と艇名のインパクトが被るのか、一般メディアにも盛んに取りあげられていました。

第1回メルボルン大阪ダブルハンドレースで優勝した優勝した〈波切大王〉

上の写真は、大会後のキャンペーンで日本各地を回った〈波切大王〉が艇名の由来となった三重県志摩の波切港を訪れたときのもの。町長はじめブラスバンド演奏で華々しく迎えられたセレモニーで、ミス・なんとかのお嬢さんから花束を受け取ったところ。右端が大儀見さん。不肖ワタクシも真ん中でにやけております。
これほど、ヨットレースが広く周知されていたということです。

同年開催された「第1回ニッポンカップ」は、同じヨットレースでも参加するレースではなく見るレース。沿岸部で行われるマッチレースで、アメリカズカップに日本から挑戦艇を出すという高みにまで昇華していきます。

今思えばバブル景気の真っ直中のこの時期は、日本の外洋ヨットレース界も爛熟期にあったといえ。でも、この隆盛は発足当初のNORCが育ててきた外洋魂とはベクトルが大きく異なっていたのかもしれません。
沖縄レース」や「小笠原レース」はイベント的に中途半端な存在になってしまっていた、と。しかし、これらのイベントこそが日本の伝統ある外洋ヨットレースなのである、と石原会長は言いたかったのではなかろうか、と考えます。

そして平成3年(1991)の年末に三浦三崎をスタートした第7回にあたる「トーヨコカップ ジヤパンーグアムヨットレース’92」での大事故に至ります。
2隻が沈み14人が命を落とすという、最悪の事故だったわけですが。NORCは遺族から訴訟を起こされ、長い裁判も始まるわけで。
景気の後退もあり、国内の外洋ヨットレースは衰退していきます。

■再生期

平成11年(1999)、NORCは解散しJYAと共にJSAF(日本セーリング連盟)に統合されます。
NORCの会員は水域毎の外洋加盟団体として細分されます。
そして平成17年(2005)、その細分化された一つである外洋三崎とJSAFとの共同主催で「小笠原レース」が再開されます。第7回、第8回と参加艇が集まらず中止になっていましたから、その前の第6回(1989)から数えて16年ぶりとなります。

大会のwebページは残っているのですが、参加資格が厳しかったこともあり、スタートラインに並んだのは僅か3艇。

webページは→こちら
レース公示は→こちら(pdf)
結果は→こちら

正直いって筆者はよく覚えていません。すいません。
個人的には、この年「パールレース」には出場しており、蒲郡で開催された「ジャパンカップ」は『Kazi』誌の取材で行って記事を書いており、日本の外洋艇によるヨットレース自体は再生期を迎えてはいたはずなのですが。

ということで、「小笠原レース」の方はあとが続かず。
ここからさらに12年ぶりの開催となったのが平成29年(2017)。
小笠原諸島返還50周年記念事業ということもあり、14艇がエントリーし12艇がスタート、全艇完走。と、「小笠原」が完全復活します。

『Kazi』誌(2017年7月号)でも、8ページに渡ってレースレポートを掲載。力入れてます。
90年代に急進的な進化をとげたグランプリ艇は初心に戻って外洋走破能力を高め、通信機器の発達もあって安全面は強化され。景気の回復と余暇の充実という社会環境もあるか。で、ヨット界は「ジャパンカップ」の低迷から一周回って再び島周りのヨットレースにも人気が戻りつつあり。
と、そんな中での500マイルという距離は手頃だった。と考察します。

小笠原レース2019

翌年の「沖縄-東海レース」を挟んで、令和元年(2019)第11回となる「小笠原レース」は、10艇がエントリー7艇がフィニッシュと、日本外洋レースの伝統は堅調に復活したか。
ということころで令和3年(2021)は新型コロナウイルスのまん延により中止の憂き目にあってしまうのです。

2019小笠原ヨットレース」webサイトは→こちら

となると、隔年開催の今年はなんとしても盛り上げていかないと……ということで、事前の告知記事をこうしてせっせと書いているわけであります。往年のNORCの先輩方の熱い筆致に背中を押されて。

小笠原レース参加艇への歓迎

高槻和宏's Column「その道は大海原へ」

著者:高槻和宏

昭和30年(1955)生まれ。横須賀在住のマリンジャーナリスト。ヨット関連の著書多数。


※「その道は大海原へ」は、JOSAが目指すテーマです。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA